残酷な処罰が数ヶ月続いた。容疑者は逮捕され、拷問にかけられた。 多くのものは想像を絶する勇敢さで口を割らなかったが、関与者の名前を明かすものもいた。 いかなる者といえどもこの激しい追求を逃れることは出来なかった。 また、陰謀に加担した軍人を民族裁判所に引き出すためには、 国防軍から追放する必要があるため、「名誉軍法会議」が設置された。 ただしこの法廷の判士になった軍人たちは困惑の体であった。 判士長のルントシュテット元帥のヒトラーに対する嘲りは有名で、しかも彼は西方軍総司令官の地位を無能と宣告されてクルーゲ元帥と交代させられていたのである。 1944年7月20日の事件の主謀者と、その長期に渡る余波で殺された関係者は以下のとおり。 シュタウフェンベルク、ベック、オルプリヒト、クヴィルンハイム、ヘフテンはすでに死亡している。 他に、シュトゥルプナーゲル大将、ティーレ中将、ラーベナ砲兵大将、帝国伯シュポネック中将 ハイスターマン・フォン・ツィーベルク中将、ヘルフルト中将、アレクシス・フォン・レンネ中佐 エーベハルト・フィンクー大佐、ヘルムート・フォン・モルトケ伯爵 フロム上級大将は即席裁判でわが身を守ることは出来なかった。 ユリウス・レーバー博士、アダム・フォン・トロット・ツーゾルフ、カール・ゲルゲラー博士、 アルフレート・デルプ神父、ハンス・フォン・ドーナニー、ディートリヒ・ボンヘーファーなどである。 自殺した人々は、クルーゲ元帥、ロンメル元帥、ヴァグナー大将(陸軍兵站総監)、 トレシュコウ少将、リンデマン砲兵大将などである。 そのほか、被逮捕者としては、ハルダー上級大将、シュパイデル中将、シャール大将、 ゲスラー元国軍大臣、エーゼベック大将とその参謀長コードレ大佐などである。 #
by suzakugawara
| 2005-08-28 17:44
| 出来事
1944年7月20日の朝、シュタウフェンベルクは国内軍の状況報告をするために、
ラシュテンブルクに出頭するように言い渡された。陰謀者の間には、 このチャンスを逃せば永久に機会は来ないという共通の認識があった。 7月17日、ロンメル元帥は連合軍機の機銃掃射を受け負傷。 それより二日前に、陰謀の協力者であったファルケンハウゼン大将が突然解任された。 そしてロンメル元帥が負傷したまさにその日、ゲルゲラーが逮捕され、 ヒトラー暗殺後の臨時政府閣僚名簿も没収されていた。 20日の会議は、ムッソリーニが当日午後早くヒトラーと会見するため、 開始予定時間の1時より30分早く始まった。この日はいつも使われている地下の会議室ではなく壁の一部が木で作られた夏用兵舎で行われることになっていた。 その部屋には三つの窓があり、部屋の中央にはオーク材の大きな地図用テーブルがあった。 シュタウフェンベルクはカイテル元帥とともに12時27分、すなわちかばんに忍ばせた時限爆弾に点火するカプセルが破裂する数分前に会議室に入った。 テーブル中央で報告を受けていたヒトラーに彼が近づくことが出来た距離は約3.6mであった。 彼はテーブルの脚にカバンを立てかけ、口実をつけてそこを立ち去った。 12時42分ブーレ歩兵大将がシュタウフェンベルクの所在を問おうとした時に爆弾が破裂した。 軽い屋根と会議室の窓がすべて吹き飛ばされ、 部屋にいたほとんどの人が窓から外へ放り出された。 ヒトラーの速記係のベルガー、副官長シュムント大将、空軍参謀長コルテン上級大将、 隠れ陰謀派の作戦課主任ブラント大佐がしばらくして死んだ。 会議にいたもののほとんどは陰謀に加担していたホイジンガー少将も含めて負傷した。 ヒトラーは右腕の打撲、足のやけど、鼓膜が破け落ちてきた梁で背中に裂傷を負い、 脳震盪で一時的に動けなくなったものの命に別状はなくカイテルに連れ出された。 ヒトラーは死ななかったのである。 少しはなれたところから爆発の様子を観察していたシュタウフェンベルクは、 ヒトラーが死んだものと確信し、大本営を脱出して、ベルリンへと向かった。 一方ベルリンでは何のはっきりとした情報もないので、オルプリヒトも、 仲の良いヘプナー上級大将とともに「ワレキューレ」の発動をためらっていた。 だが、オルプリヒトの参謀長メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐がイニシアティブをとって、 かねてから気脈を通じていたベルリン衛戍司令官ハーゼ中将に、 官庁街を封鎖するための警報を配下の衛戍大隊に発令させた。 そして大隊長レーマー少佐はただちに受領した命令どおりに行動した。 午後にベルリンに着いたシュタウフェンベルクは計画が動き出していないことに驚いた。 ヒトラーが死んだことを確信している彼はすぐさま計画の実行に取り掛かった。 表向き計画に賛同しなかったフロムは拘留され、 反抗的なブランデンブルク第三軍管区司令官代理のコルツフライシュも拘留された。 夕刻にはベックやヴィッツレーベン元帥もやってきた。 だが、計画は中々うまく進まず、その間に衛戍大隊長のレーマーは寝返った。 彼はゲッベルスを逮捕するため部隊を宣伝省に進軍させたが、ゲッベルスからだまされているのだと説得されたうえ、電話で直接ヒトラーと話し合う機会があたえられた。 ヒトラーはただちにレーマーを大佐に昇格させて、ベルリンの反乱鎮圧を命じたのである。 当時ヒトラーはムッソリーニ訪問の歓迎準備中であった。 もっともこの2人の盟友の会談はこの日が最後になったのだが… クーデター派はとりあえずデーベリッツとクランプニッツから部隊が到着するまで待つことで落着いたが、計画が予定通り進んでいないことで不機嫌になったヴィッツレーベン元帥は帰宅した。 その間にもシュタウフェンベルクらは電話とテレタイプを使って全国的な行動を起こさせようと絶望的な努力をしていた。もう一方の発信源ではケイテルが怒りと情熱をこめて、そもそも暗殺などありえなかったとしてクーデター派の行動を阻止しようとしていた。 ドイツ以外の場所では三ヶ所で行動が実行に移され、一時的に完全に成功したところもあった。 プラハではボヘミア・モラビア軍司令官代理シャール機甲大将が市内の重要拠点を押さえた。 パリではシュトゥルプナーゲル大将が、パリ地区司令官ボイネブルク・レングスフェルト中将と協力して、衛戍大隊を使ってSSとSDを武装解除して投獄した。 ウィーンでは第十七軍管区司令官代理男爵エーゼベック機甲大将とコードレ大佐が、 ナチス党とSSの高官全員を逮捕していた。 だが、ほとんどの軍管区ではベルリンからの命令が到着するのが遅すぎた… そして夜にヒトラーがラジオで国民に呼びかけた。 これによってベントラー街でのクーデター派の行動は総崩れとなった。 フロムはヒトラーへの忠誠心を示すのと同様自らの事件への関与を晴らすため、 あわてて野戦軍法会議を開き逃亡を断ったオルプリヒトとシュタウフェンベルク、クヴィルンハイム、シュタウフェンベルクの副官ヘフテン中尉がベントラー街の中庭で銃殺された。 シュタウフェンベルクは「神聖なるドイツ万歳」と叫び倒れた。 フロムに自決をすすめられたヘプナーはそれを断り、裁判で自分の行為を弁明しようとした。 ベックは自決を図ったが死に切れず、居合わせた曹長にとどめをさされた。 こうしてワレキューレ作戦は失敗に終わり、 ドイツが戦争から抜け出すための合理的な道を見出すチャンスは死んでしまった。 陸軍の陰謀はほんの数時間でついえさってしまったのだ。 7月20日付けで軍事に関して素人のハインリヒ・ヒムラーが国内予備軍の総指揮に任じられ、 新たにハインツ・グデーリアン上級大将が陸軍参謀総長になった。 グデーリアンはこれまで一度も参謀本部に勤務したことがなく、 そのことがまさにヒトラーにとって最大の身元保証であった。 #
by suzakugawara
| 2005-08-16 21:46
| 出来事
ドイツの抵抗派は再三にわたって西側連合国と協議に入ろうとしたが、
その試みはどれも成果がなかった。 特にアメリカが相手の場合には何の理解も得られなかった。 抵抗派の発言はいわば「帝政」のドイツが発言しようとしているわけであり、 ヒトラーのドイツよりましというわけではなかったからである。 しかしクーデター計画の最大の弱点は、各軍管区の中枢を占拠するにあたっての軍事行動に必要な実戦部隊、すなわちベルリン衛戍大隊やベルリン周囲に集中している各種兵科学校生徒などについてはまったく掌握していなかったことである。 陰謀家達は高級参謀部や司令部単位で多くの横のつながりがあっただけなのである。 しかも軍団長代理として任命されているのはそのほとんどが 前線で任務に耐えられないような老齢の、あるいは病身の将軍であった。 また、ベックやゲルゲラーの周囲にいた保守的な名士グループと若手の参謀将校の間には、 政治上の見解の点で大きな相違があった。 その他の不確定要素としては、国内軍司令官フロム将軍の態度があった。 彼はライバルのカイテルと同じT2課の出身で、立場上、この戦争が負けであること、 何も得ることがなかったのをよく認識していた。 彼はヒトラーを災難だと思い、またカイテルのことを誇大妄想的になってきた「伍長」の 最悪の寵臣だとみなしていた。 そのために何とかしてヒトラーを排除するための方策を考えてはいた。 だが暗殺とクーデター彼の趣味には合わなかった。それで彼は他人の保護をすることになった。 そしてシュタウフェンベルクのやっていることすべてを黙認することにした。 そしてこんなシニカルな言い方でうっぷんを我慢していた。 「もし君らが一揆を起こしたら、俺はヴィルヘルム・カイテルのことを忘れないぞ」と。 1944年7月1日付けでシュタウフェンベルクは大佐に昇進し、 フリードリッヒ・フロム指揮の国内予備軍兼陸軍装備局の参謀長になった。 7月初め、カイテルから初めて新任の国内予備軍参謀長を紹介された時、 ヒトラーはこの片目に黒の眼帯をして大柄ですらりとし、 やや淋しげで強い印象をあたえるシュタウフェンベルクのことを、 特異な直観力によって、自分に敵意を持っている人物だ、と看破したという。 「なんと不気味な奴だ!」と。 #
by suzakugawara
| 2005-08-14 20:05
| 出来事
1943年は敗北の年だったが、1944年がそれ以上良くなる見込みはなかった。
大西洋からドン河そしてシチリア島から連合軍は一歩一歩圧力をかけてきた。 参謀本部とOKH,そしてOKW対外防諜局、それにベルギー及び北フランス地区司令官の ファルケンハウゼン歩兵大将(元中華民国軍事顧問)と パリの地区司令官シュトゥルプナーゲル大将、さらには敵の侵攻に備えて北フランスに配置されていたロンメル元帥とシュパイデル中将のB軍集団司令部内でも 広く枝を張った抵抗派とのパイプが出来上がっていた。 だがこれは将軍と参謀将校段階での組織網であって、 目的達成のために実戦部隊を掌握できているかどうかについては自信が無かった。 (写真左よりAlexander von Falkenhausen、Karl-Heinrich von Stuelpnagel ) 参謀本部内では作戦課長ホイジンンガー少将、編成課長シュティーフ少将、西方外国軍課長レンネ中佐、そして陸軍通信連絡局長フェルギーベル中将などが内通者の中に数えられた。 ベルリン地区ではSSが強力な軍隊を持っていたが、国防軍の軍事教練学校は デベリッツ、クランプニッツ、ユーテンボルク、ヴンスドルフで質の高い兵力を提供した。 ヘルドルフ伯指揮下のベルリン警察隊、 市司令官パウル・フォン・ハーゼ将軍も反ナチにかかわっていた。 だが戦況はますます悪化していった。 6月6日、英米の大陸侵攻軍がノルマンディーに上陸したのである。 ここに西部戦線が現実のものとなった。ロンメルと幕僚たちは在フランスの各司令官たちと協調しつつ、ひそかに西側諸国と休戦の交渉に入ることを画策していたが、フランスで戦いが始まったことによって、そのような考えは一切が幻となった。 東部戦線ではドイツ中央軍集団が「白ルテニア大戦闘」で完全に壊滅し、 いよいよソ連軍が東プロイセンの国境に迫りつつあった。 ドイツ本土の上空は米英軍機に支配されていた。英空軍は大都市に対する夜間の銃弾爆撃を、 米空軍は昼間に生産拠点と交通要衝などの「ポイント目標」への攻撃を繰り返した。 戦争は負けであった。元陸軍総司令官フリッチュとベックは、 来るべき戦争では陸軍こそが決定的な要素になると考えていたが、 それは真実ではなかった。逆にこれは陰謀者にとって真実となった。 なぜならば軍人による反ヒトラー陰謀においては、陸軍だけが頼りなのである。 数的に極めて強力な空軍も海軍もこの件についてはまったく計算の中に入れられていない。 #
by suzakugawara
| 2005-07-29 21:19
| 出来事
OKH総務局長オルプリヒト大将は自分の参謀長にシュタウフェンベルクを希望した。
この措置のおかげでシュタウフェンベルクは 国内予備軍のキー・ポジションに配置され、陰謀計画を着々と発展させていった。 そして同計画には二つの同時進行的な作戦があったことが知られている。 ヒトラーの暗殺と、ヒムラーやゲーリング、SSからドイツ国家を完全に奪取することである。 43年夏に、陰謀計画におけるシュタウフェンベルクの中心的役割を認めていたベックとゲルゲラーは、ヒトラー暗殺後の権力掌握と特にベルリン奪取計画を練るよう彼に要請した。 「ワレキューレ作戦」の名で知られるこの計画は、 見事に考案されたカバーストーリーであり、同時にベルリン奪取計画であった。 オルプリヒト大将の参謀長としてシュタウフェンベルクはまったく公然と、 ベルリン地区で強制労働に従事している何千という外国人労働者の万が一の反乱、 敵落下傘部隊の降下などに備えて、政府関係の主要なビルや電話・通信センター、 ラジオ局などを押さえるために、ベルリン守備隊を動かす非常計画を立案した。 これは作戦本来の目的を隠す隠れ蓑であった。 さらに同作戦はSS部隊に対しても備えが出来ていたのである。 そしてシュタウフェンベルクはクーデターの指揮だけでなく、ヒトラー暗殺の実行も引き受けた。 なぜなら、彼例外には誰もこの恐ろしい仕事をやり遂げられるような機会がなく、 またその意志も持ち合わせていなかったからである。 #
by suzakugawara
| 2005-07-28 20:43
| 出来事
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