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1944年7月~10月末 バルト海沿岸地域②

両集団の合流後、勢いに乗るドイツ軍は南に転じ、
8月23日にはトゥクムス市の南約40kmみある要衝ドベレを奪回すべく攻勢を開始した。

しかしちょうどこの時、ソ連軍による新たな攻勢が開始されたのである!!
ソ連軍はエストニアの北方ヴォルツ湖とペイプス湖の間のタルトゥー市に攻撃を加えてきており、
タンネンベルクラインといわれるナルヴァ河戦線に立てこもって抵抗を続けている
ナルヴァ作戦集団の背後が脅威に曝されることとなった。
そして25日にタルトゥー市は陥落、ドイツ軍は市郊外で陣地を築き抵抗を続ける。


ナルヴァ作戦集団
   第2軍団
     第563擲弾兵師団
     第207保安師団

   SS第3戦車軍団
     第300特別編成師団
     SS大20武装擲弾兵師団【エストニア第1】
     第11歩兵師団
     第285保安師団の一部
     SS第11機甲擲弾兵師団【ノルラント】
     SS義勇機甲擲弾兵旅団【ネーダーラント】の一部  
     SS第5義勇突撃旅団【ワロニエン】の一部
     SS第6義勇突撃旅団【ランゲマルク】

ナルヴァ河に沿ってナルヴァ作戦集団によって構築されていたタンネンベルクラインは、
ソ連軍の攻勢を幾度も防いでいたが、相次ぐ他戦線への兵力抽出によって弱体化していた。

9月17日、イェレメンコ指揮の第2バルト軍集団とマスレニーコフ大将指揮の第3バルト軍集団が、バルト海とリガ湾に向けて攻勢を再開した。
この攻勢によりタルトゥー市郊外のドイツ軍陣地はソ連軍第2打撃軍によって蹴散らされ、
ヴァルガの北方のドイツ軍陣地もシモニャーク中将指揮の第67軍によって壊滅した。
これらの攻勢によりドイツ北方軍集団の防衛組織は完全に崩壊の瀬戸際へと追い込まれた。
北方軍集団司令官シェルナー上級大将はこれ以上の抵抗は不可能と考え、退却を命じた。
かくして北方軍集団はソ連軍による圧迫を受けつつも、リガへと後退した。

一方、ナルヴァ戦線ではレニングラード正面軍によって攻撃を加えられていた。
この戦線は多くのエストニア義勇兵の粘り強い抵抗で防衛戦を展開していたが、
遂に支えきれず、戦線は突破されてしまった。このことを予期していたナルヴァ作戦集団は、
包囲を避けるためかねてから準備していた
撤退作戦[アシュター]を開始した。
ナルヴァ作戦集団は撤退を続け、9月27日にはクールランドの北に位置する、
サーレマー島とヒウムマ島に撤退した。
これによりソ連軍はバルト海の島を除き、実質上エストニア全土からドイツ軍を一掃した。

9月24日、ソ連軍最高司令部はヒウムマ島とサーレマー島に対する攻撃を決定し、
そして第2バルト軍集団と第3バルト軍集団はリガを急襲し、
バルト海岸のドイツ軍を一掃することになった。

だが、ソ連軍はドイツ北方軍集団を東プロイセンから切断し、
バルト海沿岸のドイツ軍を包囲殲滅するように作戦を変更したのである。

第1バルト軍集団司令官のバグラミヤンは10月4日までに五個軍団を攻撃地点に移動させた。
その内訳は狙撃(歩兵)師団50個、戦車旅団15個、砲兵連隊9個であった。
ドイツ軍もこの移動を察知していたが、対策をたてる時間がなかったのである。

10月5日、ソ連軍は攻撃を開始し、ヴォリスキー将軍率いる第5親衛軍がドイツ軍陣地を蹂躙し、戦線の後方への突破に成功した。この攻撃によりドイツ軍第3装甲軍団は分断され、
第28軍がメーメル市内に閉じこめられてしまい、
他の軍団もクールランドとリガ周辺にいた北方軍集団と切り離されてしまった。
このような危機的状況に直面したシェルナーはヒトラーに北方軍集団をクールランドの橋頭堡に撤退させるように主張し、ソ連軍の砲火の下をくぐって撤退が開始された。
10月23日までに北方軍集団はクールランドへの撤退を完了し、兵力と物資の大半を確保することに成功した。ヒトラーはそこに北方軍集団が留まることを主張して、
一部の部隊だけが、海路脱出して他の方面へ転用された。

一方、第3装甲軍団の残存部隊は東プロイセン国境沿いに新たな防衛ラインを構築していた。
10月16日、ソ連軍の第3白ロシア軍集団が攻撃を開始した、
ドイツ側の抵抗を熾烈を極め、ソ連軍は4日を費やして防衛ラインを突破するのに成功した。
だが、第二次防衛ラインも堅固でソ連軍は多大な犠牲を払ってこれを突破し、東プロイセンに100キロほど侵入し、兵力の補充のため、一時停止することとなった。
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by suzakugawara | 2005-09-15 17:06 | 戦史関連

1944年7月~10月末 バルト海沿岸地域①

1944年晩夏から秋にかけて、ドイツ軍の北方戦線は危機に見舞われることになった。
7月5日にバグラチオン作戦の延長として開始されたシャワリャイ作戦によって、
ソ連軍はドイツ中央軍集団と北方軍集団との間の亀裂を拡大させていった。
7月31日までに第1バルト軍集団に所属する
第51軍(クレイツェル中将)、第43軍(ベロバロードフ中将)、
第2親衛軍(チェンチバッジェ中将)がリガ湾に通じる亀裂に侵入を開始し、
結果的にドイツ中央軍集団と北方軍集団の連絡を遮断する結果となった。
この事態に対処するため、ドイツ軍はリガ近郊で限定的な反撃に打って出た。
この結果、ソ連軍の先鋒の第3親衛機械化軍団(チスチャーコフ中将)を切断し、
両軍集団の間に幅約30キロの通路を作り上げることに成功した。
ドイツ軍はさらに第5、第14、第7装甲師団に「大ドイツ」装甲擲弾兵師団をもって、
8月16日に東方へ攻勢を開始した。この攻撃は、突破してきたソ連軍を逆に包囲し、
シャウリャイの鉄道分岐点と幹線道路を奪回しようとするものであった。
だが、物量にまさるソ連軍の迅速な対応と制空権によってこの攻勢は食い止められてしまった。
7月25日から北方軍集団司令官となった
フェルディナント・シェルナー上級大将
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                     (Ferdinand Schörner )

北方軍集団と中央軍集団による連続した前線を再び構築するために、
グラーフ・シュトラハヴィッツ少将を臨時司令官とする作戦軍団の編成を下令した。
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                 (Graf Hyazinth von Strachwitz)

しかし実質兵力約1個戦車師団程度しか掻き集められたに過ぎなかった。
臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】の編成は以下とおり。
         ・第337歩兵師団
         ・第101戦車旅団 (フォン・ラウヒェルト大佐)
         ・第337通信大隊
         ・SS戦車旅団【グロス】 (マルティン・グロスSS少佐)
         ・SS第19砲兵連隊

だが、ドイツ軍としてはこれらの戦力をもって反撃するしかなく、
8月20日午前4時、満を持した臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】は奇襲攻撃を開始した。
作戦目標はリガ要塞部隊との連絡の回復である。

それより4時間ほど前、ドイツ艦隊の生き残りの重巡【プリンツ・オイゲン】が駆逐艦4隻と、
水雷艇5隻と共にクールランドとサレマ島の水道を通り過ぎ、リガ湾に入ろうとしていた。
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                        (Prinz Eugen)

リガ湾に入港する途中、【プリンツ・オイゲン】はトゥクムス市へ向けて砲撃を開始した。
砲撃目標のトゥクムス市は海岸から24キロもあり、艦からは見ることは出来なかったが、
20.3センチ砲の最初の斉射は正確に目標に命中させることが出来た。
艦の砲撃精度は非常に高く、低速で移動中にもかかわらず命中率は8割に達した。
午後には陸軍から適切な支援を感謝するとしたメッセージが送付され、
艦隊は敵空軍の攻撃などを避けるため、リガ湾へと急行していった。

この砲撃によりトゥクムス市内ではT-34が48両も撃破され、
ソ連軍防衛部隊に甚大な損害を与えることとなった。
こうして強力な艦砲射撃の援護の下で臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】の先鋒部隊は、
その日の午後にはトゥクムス市を占領することに成功した。

トゥクムス占領後、師団は東方のケメルン市に向かって攻撃を継続していたが、
同じ頃、リガ要塞部隊の第81、第93歩兵師団が、
第202、第912突撃砲旅団などの援護を受けつつ、西方への攻撃を開始した。
その後両部隊はケメルン市南方で臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】と無事合流し、
ここに北方軍集団と中央軍集団は再び連続した戦線を構築するのに成功したのである。
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by suzakugawara | 2005-09-02 22:09 | 戦史関連