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お知らせ

南欧戦線の資料が少なく、外国の文献にもあたっているため、
訳等で時間が掛かっております…

もうしばし更新はお待ちを…

ヒトラー暗殺未遂事件にまた補筆を加えたいと思います。
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# by suzakugawara | 2006-02-21 19:08 | 徒然日記

1944年7月~10月末 南欧戦線

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新たに陸軍参謀総長となったハインツ・グデーリアン上級大将は中央軍集団の壊滅により、
危機に瀕している東部戦線の立て直しに着手した。
彼はドニエストルからルーマニアまでを守っていた南ウクライナ軍集団のドイツ・ルーマニアの混成軍をカルパート山脈まで後退させ、新たに2つのドイツ・ルーマニア混成集団が組織された。

ヴェーラー作戦集団
ルーマニア第4軍(キルヒナー大将)、ドイツ第8軍を中心とする
ドイツ軍7個師団、ルーマニア軍14個師団と7個旅団

ドミトレスク作戦集団
ドイツ第6軍、ルーマニア第3軍(ヨハン・ドミトレスク大将)を中心とする
ドイツ軍17個師団、ルーマニア軍7個師団と1個旅団

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          ( 左:ヨハン・ドミトレスク大将 右:山岳軍団長アヴラメスク中将 )
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# by suzakugawara | 2005-11-25 00:21 | 戦史関連

1944年7月~10月末 極北戦線

[ペツァモ=キルケネス作戦]
極北戦線はドイツ軍のムルマンスク攻略を目標とした銀ギツネ作戦によって戦端が開かれたが、1942年のソ連軍のカレリア作戦(注1)の失敗以降膠着状態が続いていた。

ソ連軍は南方攻勢のために第一線部隊の大半が予備部隊や守備部隊と交代していたが、
散漫な作戦をフィンランド軍に対して行い、出来るだけ多くの戦力を殺ごうとした。
そして、バルト地方でのドイツ北方軍集団の崩壊とリガの陥落によって、
マンネルハイム元帥のフィンランド政府は休戦協定の調印するのやむなきに至った。

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ドイツ第20山岳軍団の司令官ロタール・レンドリック上級大将(写真上)は
フィンランドの脱落を事前に予想しており、配下の軍をムルマンスク西方のコラ半島のつけ根の北側と北ノルウェーの防塞拠点へと撤退を開始させていた。そして撤退が後少しというところで
ソ連軍が北方での最後の攻勢であるペツァモ=キルケネス作戦を仕掛けてきた。

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          (左:メレツコフ元帥 右:シュチェルバーコフ中将 )
       
カレリア正面軍司令官メレツコフ元帥シュチェルバーコフ中将率いる第14軍を主力とし、
ドイツ第2山岳師団の南側面を攻撃して迂回包囲し、
その後、主目標であるドイツ第19山岳軍団を攻撃するというものであった。
第14軍は第19山岳軍団に対して、兵員数で11万人対4万5千人と圧倒的に優勢であった。
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しかし10月7日の総攻撃は空軍の視界不良と砲兵の支援不十分により中々進展しなかった。
第131狙撃師団はチトフカ河を渡り早々に橋頭堡を構築したが、攻撃の主力である第99狙撃師団は前面のドイツ軍の砲兵陣地を制圧するのに手間取り前進が遅れ、
その間に第2山岳師団はチトフカ河の橋を爆破して撤退してしまった。
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10月9日から10日の夜にかけてソ連第63海兵旅団が上陸し、海岸に通じる道路を遮断した。
さらに第12海兵旅団も上陸し、海岸沿いのドイツ軍はペツァモまで撤退を余儀なくされた。
さらにソ連第126軽狙撃師団が西方へ通じる唯一の脱出路のロエスタリに、ドイツ軍の脱出を阻止する拠点を構築しつつあった。だが、この拠点は脆弱で、レンドリック上級大将は第19山岳軍団に撤退を指示し、第2山岳師団はソ連軍の阻止点を突破し、西方へ脱出できた。
ドイツ軍陣地の北の要のペツァモは、第63海兵旅団、第12海兵旅団、第14軍に三方向から攻撃され、14日に陥落した。ソ連軍はこの攻撃で消耗し進撃を休止しなければならなかった。
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その後、ソ連軍はドイツ軍を蹴散らしつつ拠点を構築していったが極地のために補給が続かず、
ドイツ軍は兵力の大半を脱出させることに成功した。
退却しつつドイツ軍は局地的反撃を加え、ノルウェーに退いてからは空軍と砲兵の支援を受け、
ソ連軍の追撃を何度も撃退し、食い止めることに成功した。
メレツコフ元帥はこれ以上の進撃は地理的に不可能と判断し偵察以外の作戦を中止した。
これによってペツァモ=キルケネス作戦は終了する。

今作戦によってソ連軍は側面を脅かしていた極地を解放することに成功した。
さらに重要なこととして、この地域の多くの鉱山から産出されるニッケルと鉄鉱石のドイツ側への供給を遮断することに成功したのである。
戦争経済を語るヒトラーがこれを聞いて怒り狂ったことは言うまでもない。
何しろ彼はこれを守るためにノルウェーを占領し、銀ギツネ作戦を発動したのだから…

ソ連側の司令官メレツコフ元帥は満州においてもう一度歴史に名を残すことになる。
今回のペツァモ=キルケネス作戦での教訓を応用し、
満州の過酷な地域で日本軍を破ることに成功したからである。


(注1)
ムルマンスク前面のドイツ山岳師団(第6山岳師団)を壊滅し、
キルケネスまで進出し、北部フィンランドの占領を目的としたしたソ連軍の春季攻勢。
カレリア軍集団司令官フロロフ中将は第14軍率いて大攻勢に打って出たが、
シェルナー中将の必死の防戦とツンドラによりソ連軍は消耗しドイツ軍は防戦に成功した。
だがドイツ軍の反撃も兵力不足から攻撃力が尽きてしまい、
ムルマン鉄道目前にしながら攻撃を停止した。
その原因として空軍の兵力が少なかったことがあげられている。
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# by suzakugawara | 2005-10-23 21:53 | 戦史関連

1944年7月~10月末 バルト海沿岸地域②

両集団の合流後、勢いに乗るドイツ軍は南に転じ、
8月23日にはトゥクムス市の南約40kmみある要衝ドベレを奪回すべく攻勢を開始した。

しかしちょうどこの時、ソ連軍による新たな攻勢が開始されたのである!!
ソ連軍はエストニアの北方ヴォルツ湖とペイプス湖の間のタルトゥー市に攻撃を加えてきており、
タンネンベルクラインといわれるナルヴァ河戦線に立てこもって抵抗を続けている
ナルヴァ作戦集団の背後が脅威に曝されることとなった。
そして25日にタルトゥー市は陥落、ドイツ軍は市郊外で陣地を築き抵抗を続ける。


ナルヴァ作戦集団
   第2軍団
     第563擲弾兵師団
     第207保安師団

   SS第3戦車軍団
     第300特別編成師団
     SS大20武装擲弾兵師団【エストニア第1】
     第11歩兵師団
     第285保安師団の一部
     SS第11機甲擲弾兵師団【ノルラント】
     SS義勇機甲擲弾兵旅団【ネーダーラント】の一部  
     SS第5義勇突撃旅団【ワロニエン】の一部
     SS第6義勇突撃旅団【ランゲマルク】

ナルヴァ河に沿ってナルヴァ作戦集団によって構築されていたタンネンベルクラインは、
ソ連軍の攻勢を幾度も防いでいたが、相次ぐ他戦線への兵力抽出によって弱体化していた。

9月17日、イェレメンコ指揮の第2バルト軍集団とマスレニーコフ大将指揮の第3バルト軍集団が、バルト海とリガ湾に向けて攻勢を再開した。
この攻勢によりタルトゥー市郊外のドイツ軍陣地はソ連軍第2打撃軍によって蹴散らされ、
ヴァルガの北方のドイツ軍陣地もシモニャーク中将指揮の第67軍によって壊滅した。
これらの攻勢によりドイツ北方軍集団の防衛組織は完全に崩壊の瀬戸際へと追い込まれた。
北方軍集団司令官シェルナー上級大将はこれ以上の抵抗は不可能と考え、退却を命じた。
かくして北方軍集団はソ連軍による圧迫を受けつつも、リガへと後退した。

一方、ナルヴァ戦線ではレニングラード正面軍によって攻撃を加えられていた。
この戦線は多くのエストニア義勇兵の粘り強い抵抗で防衛戦を展開していたが、
遂に支えきれず、戦線は突破されてしまった。このことを予期していたナルヴァ作戦集団は、
包囲を避けるためかねてから準備していた
撤退作戦[アシュター]を開始した。
ナルヴァ作戦集団は撤退を続け、9月27日にはクールランドの北に位置する、
サーレマー島とヒウムマ島に撤退した。
これによりソ連軍はバルト海の島を除き、実質上エストニア全土からドイツ軍を一掃した。

9月24日、ソ連軍最高司令部はヒウムマ島とサーレマー島に対する攻撃を決定し、
そして第2バルト軍集団と第3バルト軍集団はリガを急襲し、
バルト海岸のドイツ軍を一掃することになった。

だが、ソ連軍はドイツ北方軍集団を東プロイセンから切断し、
バルト海沿岸のドイツ軍を包囲殲滅するように作戦を変更したのである。

第1バルト軍集団司令官のバグラミヤンは10月4日までに五個軍団を攻撃地点に移動させた。
その内訳は狙撃(歩兵)師団50個、戦車旅団15個、砲兵連隊9個であった。
ドイツ軍もこの移動を察知していたが、対策をたてる時間がなかったのである。

10月5日、ソ連軍は攻撃を開始し、ヴォリスキー将軍率いる第5親衛軍がドイツ軍陣地を蹂躙し、戦線の後方への突破に成功した。この攻撃によりドイツ軍第3装甲軍団は分断され、
第28軍がメーメル市内に閉じこめられてしまい、
他の軍団もクールランドとリガ周辺にいた北方軍集団と切り離されてしまった。
このような危機的状況に直面したシェルナーはヒトラーに北方軍集団をクールランドの橋頭堡に撤退させるように主張し、ソ連軍の砲火の下をくぐって撤退が開始された。
10月23日までに北方軍集団はクールランドへの撤退を完了し、兵力と物資の大半を確保することに成功した。ヒトラーはそこに北方軍集団が留まることを主張して、
一部の部隊だけが、海路脱出して他の方面へ転用された。

一方、第3装甲軍団の残存部隊は東プロイセン国境沿いに新たな防衛ラインを構築していた。
10月16日、ソ連軍の第3白ロシア軍集団が攻撃を開始した、
ドイツ側の抵抗を熾烈を極め、ソ連軍は4日を費やして防衛ラインを突破するのに成功した。
だが、第二次防衛ラインも堅固でソ連軍は多大な犠牲を払ってこれを突破し、東プロイセンに100キロほど侵入し、兵力の補充のため、一時停止することとなった。
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# by suzakugawara | 2005-09-15 17:06 | 戦史関連

1944年7月~10月末 バルト海沿岸地域①

1944年晩夏から秋にかけて、ドイツ軍の北方戦線は危機に見舞われることになった。
7月5日にバグラチオン作戦の延長として開始されたシャワリャイ作戦によって、
ソ連軍はドイツ中央軍集団と北方軍集団との間の亀裂を拡大させていった。
7月31日までに第1バルト軍集団に所属する
第51軍(クレイツェル中将)、第43軍(ベロバロードフ中将)、
第2親衛軍(チェンチバッジェ中将)がリガ湾に通じる亀裂に侵入を開始し、
結果的にドイツ中央軍集団と北方軍集団の連絡を遮断する結果となった。
この事態に対処するため、ドイツ軍はリガ近郊で限定的な反撃に打って出た。
この結果、ソ連軍の先鋒の第3親衛機械化軍団(チスチャーコフ中将)を切断し、
両軍集団の間に幅約30キロの通路を作り上げることに成功した。
ドイツ軍はさらに第5、第14、第7装甲師団に「大ドイツ」装甲擲弾兵師団をもって、
8月16日に東方へ攻勢を開始した。この攻撃は、突破してきたソ連軍を逆に包囲し、
シャウリャイの鉄道分岐点と幹線道路を奪回しようとするものであった。
だが、物量にまさるソ連軍の迅速な対応と制空権によってこの攻勢は食い止められてしまった。
7月25日から北方軍集団司令官となった
フェルディナント・シェルナー上級大将
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                     (Ferdinand Schörner )

北方軍集団と中央軍集団による連続した前線を再び構築するために、
グラーフ・シュトラハヴィッツ少将を臨時司令官とする作戦軍団の編成を下令した。
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                 (Graf Hyazinth von Strachwitz)

しかし実質兵力約1個戦車師団程度しか掻き集められたに過ぎなかった。
臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】の編成は以下とおり。
         ・第337歩兵師団
         ・第101戦車旅団 (フォン・ラウヒェルト大佐)
         ・第337通信大隊
         ・SS戦車旅団【グロス】 (マルティン・グロスSS少佐)
         ・SS第19砲兵連隊

だが、ドイツ軍としてはこれらの戦力をもって反撃するしかなく、
8月20日午前4時、満を持した臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】は奇襲攻撃を開始した。
作戦目標はリガ要塞部隊との連絡の回復である。

それより4時間ほど前、ドイツ艦隊の生き残りの重巡【プリンツ・オイゲン】が駆逐艦4隻と、
水雷艇5隻と共にクールランドとサレマ島の水道を通り過ぎ、リガ湾に入ろうとしていた。
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                        (Prinz Eugen)

リガ湾に入港する途中、【プリンツ・オイゲン】はトゥクムス市へ向けて砲撃を開始した。
砲撃目標のトゥクムス市は海岸から24キロもあり、艦からは見ることは出来なかったが、
20.3センチ砲の最初の斉射は正確に目標に命中させることが出来た。
艦の砲撃精度は非常に高く、低速で移動中にもかかわらず命中率は8割に達した。
午後には陸軍から適切な支援を感謝するとしたメッセージが送付され、
艦隊は敵空軍の攻撃などを避けるため、リガ湾へと急行していった。

この砲撃によりトゥクムス市内ではT-34が48両も撃破され、
ソ連軍防衛部隊に甚大な損害を与えることとなった。
こうして強力な艦砲射撃の援護の下で臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】の先鋒部隊は、
その日の午後にはトゥクムス市を占領することに成功した。

トゥクムス占領後、師団は東方のケメルン市に向かって攻撃を継続していたが、
同じ頃、リガ要塞部隊の第81、第93歩兵師団が、
第202、第912突撃砲旅団などの援護を受けつつ、西方への攻撃を開始した。
その後両部隊はケメルン市南方で臨時集成戦車師団【シュトラハヴィッツ】と無事合流し、
ここに北方軍集団と中央軍集団は再び連続した戦線を構築するのに成功したのである。
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# by suzakugawara | 2005-09-02 22:09 | 戦史関連

ヒトラー暗殺未遂事件⑦ ~ヒトラーによる報復~


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暗殺とクーデターの失敗の後、ヒトラーによる残酷な報復が始まった。
残酷な処罰が数ヶ月続いた。容疑者は逮捕され、拷問にかけられた。
多くのものは想像を絶する勇敢さで口を割らなかったが、関与者の名前を明かすものもいた。
いかなる者といえどもこの激しい追求を逃れることは出来なかった。
また、陰謀に加担した軍人を民族裁判所に引き出すためには、
国防軍から追放する必要があるため、「名誉軍法会議」が設置された。
ただしこの法廷の判士になった軍人たちは困惑の体であった。
判士長のルントシュテット元帥のヒトラーに対する嘲りは有名で、しかも彼は西方軍総司令官の地位を無能と宣告されてクルーゲ元帥と交代させられていたのである。

1944年7月20日の事件の主謀者と、その長期に渡る余波で殺された関係者は以下のとおり。
シュタウフェンベルク、ベック、オルプリヒト、クヴィルンハイム、ヘフテンはすでに死亡している。
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                       ヴィッツレーベン元帥
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                        ヘプナー上級大将
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                    ハーゼ大将 (ベルリン地区司令官)
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                   男爵チュンゲン大将 (第三軍管区司令官代理)                 
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                        フェルギーベル大将
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                    シュティーフ少将 (参謀本部編成課長)
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                        ハンス・オスター大佐
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                    リンストウ大佐 (フランス軍政部参謀長)
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                      ヴィルヘルム・カナリス提督
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                       ハッセル (元駐伊大使)
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                      ヴォルフ・ヘルドルフ伯爵
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                     アルトゥール・ネーベ (刑事警察局長)
他に、シュトゥルプナーゲル大将、ティーレ中将、ラーベナ砲兵大将、帝国伯シュポネック中将
ハイスターマン・フォン・ツィーベルク中将、ヘルフルト中将、アレクシス・フォン・レンネ中佐
エーベハルト・フィンクー大佐、ヘルムート・フォン・モルトケ伯爵
フロム上級大将は即席裁判でわが身を守ることは出来なかった。
ユリウス・レーバー博士、アダム・フォン・トロット・ツーゾルフ、カール・ゲルゲラー博士、
アルフレート・デルプ神父、ハンス・フォン・ドーナニー、ディートリヒ・ボンヘーファーなどである。

自殺した人々は、クルーゲ元帥、ロンメル元帥、ヴァグナー大将(陸軍兵站総監)、
トレシュコウ少将、リンデマン砲兵大将などである。

そのほか、被逮捕者としては、ハルダー上級大将、シュパイデル中将、シャール大将、
ゲスラー元国軍大臣、エーゼベック大将とその参謀長コードレ大佐などである。

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# by suzakugawara | 2005-08-28 17:44 | 出来事

ヒトラー暗殺未遂事件⑥ ~運命の7月20日~

 1944年7月20日の朝、シュタウフェンベルクは国内軍の状況報告をするために、
ラシュテンブルクに出頭するように言い渡された。陰謀者の間には、
このチャンスを逃せば永久に機会は来ないという共通の認識があった。
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         (7月15日総統大本営にて。左端がシュタウフェンベルク大佐 )

7月17日、ロンメル元帥は連合軍機の機銃掃射を受け負傷。
それより二日前に、陰謀の協力者であったファルケンハウゼン大将が突然解任された。
そしてロンメル元帥が負傷したまさにその日、ゲルゲラーが逮捕され、
ヒトラー暗殺後の臨時政府閣僚名簿も没収されていた。
 20日の会議は、ムッソリーニが当日午後早くヒトラーと会見するため、
開始予定時間の1時より30分早く始まった。この日はいつも使われている地下の会議室ではなく壁の一部が木で作られた夏用兵舎で行われることになっていた。
その部屋には三つの窓があり、部屋の中央にはオーク材の大きな地図用テーブルがあった。
 シュタウフェンベルクはカイテル元帥とともに12時27分、すなわちかばんに忍ばせた時限爆弾に点火するカプセルが破裂する数分前に会議室に入った。
テーブル中央で報告を受けていたヒトラーに彼が近づくことが出来た距離は約3.6mであった。
彼はテーブルの脚にカバンを立てかけ、口実をつけてそこを立ち去った。
12時42分ブーレ歩兵大将がシュタウフェンベルクの所在を問おうとした時に爆弾が破裂した。
軽い屋根と会議室の窓がすべて吹き飛ばされ、
部屋にいたほとんどの人が窓から外へ放り出された。
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ヒトラーの速記係のベルガー、副官長シュムント大将、空軍参謀長コルテン上級大将、
隠れ陰謀派の作戦課主任ブラント大佐がしばらくして死んだ。
会議にいたもののほとんどは陰謀に加担していたホイジンガー少将も含めて負傷した。
ヒトラーは右腕の打撲、足のやけど、鼓膜が破け落ちてきた梁で背中に裂傷を負い、
脳震盪で一時的に動けなくなったものの命に別状はなくカイテルに連れ出された。
ヒトラーは死ななかったのである。
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少しはなれたところから爆発の様子を観察していたシュタウフェンベルクは、
ヒトラーが死んだものと確信し、大本営を脱出して、ベルリンへと向かった。

一方ベルリンでは何のはっきりとした情報もないので、オルプリヒトも、
仲の良いヘプナー上級大将とともに「ワレキューレ」の発動をためらっていた。
だが、オルプリヒトの参謀長メルツ・フォン・クヴィルンハイム大佐がイニシアティブをとって、
かねてから気脈を通じていたベルリン衛戍司令官ハーゼ中将に、
官庁街を封鎖するための警報を配下の衛戍大隊に発令させた。
そして大隊長レーマー少佐はただちに受領した命令どおりに行動した。
午後にベルリンに着いたシュタウフェンベルクは計画が動き出していないことに驚いた。
ヒトラーが死んだことを確信している彼はすぐさま計画の実行に取り掛かった。
表向き計画に賛同しなかったフロムは拘留され、
反抗的なブランデンブルク第三軍管区司令官代理のコルツフライシュも拘留された。
夕刻にはベックやヴィッツレーベン元帥もやってきた。
だが、計画は中々うまく進まず、その間に衛戍大隊長のレーマーは寝返った。
彼はゲッベルスを逮捕するため部隊を宣伝省に進軍させたが、ゲッベルスからだまされているのだと説得されたうえ、電話で直接ヒトラーと話し合う機会があたえられた。
ヒトラーはただちにレーマーを大佐に昇格させて、ベルリンの反乱鎮圧を命じたのである。
当時ヒトラーはムッソリーニ訪問の歓迎準備中であった。
もっともこの2人の盟友の会談はこの日が最後になったのだが…

クーデター派はとりあえずデーベリッツとクランプニッツから部隊が到着するまで待つことで落着いたが、計画が予定通り進んでいないことで不機嫌になったヴィッツレーベン元帥は帰宅した。
その間にもシュタウフェンベルクらは電話とテレタイプを使って全国的な行動を起こさせようと絶望的な努力をしていた。もう一方の発信源ではケイテルが怒りと情熱をこめて、そもそも暗殺などありえなかったとしてクーデター派の行動を阻止しようとしていた。
 
ドイツ以外の場所では三ヶ所で行動が実行に移され、一時的に完全に成功したところもあった。
プラハではボヘミア・モラビア軍司令官代理シャール機甲大将が市内の重要拠点を押さえた。
パリではシュトゥルプナーゲル大将が、パリ地区司令官ボイネブルク・レングスフェルト中将と協力して、衛戍大隊を使ってSSとSDを武装解除して投獄した。
ウィーンでは第十七軍管区司令官代理男爵エーゼベック機甲大将とコードレ大佐が、
ナチス党とSSの高官全員を逮捕していた。

だが、ほとんどの軍管区ではベルリンからの命令が到着するのが遅すぎた…
そして夜にヒトラーがラジオで国民に呼びかけた。

これによってベントラー街でのクーデター派の行動は総崩れとなった。
フロムはヒトラーへの忠誠心を示すのと同様自らの事件への関与を晴らすため、
あわてて野戦軍法会議を開き逃亡を断ったオルプリヒトとシュタウフェンベルク、クヴィルンハイム、シュタウフェンベルクの副官ヘフテン中尉がベントラー街の中庭で銃殺された。
シュタウフェンベルクは「神聖なるドイツ万歳」と叫び倒れた。
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フロムに自決をすすめられたヘプナーはそれを断り、裁判で自分の行為を弁明しようとした。
ベックは自決を図ったが死に切れず、居合わせた曹長にとどめをさされた。

こうしてワレキューレ作戦は失敗に終わり、
ドイツが戦争から抜け出すための合理的な道を見出すチャンスは死んでしまった。
陸軍の陰謀はほんの数時間でついえさってしまったのだ。


7月20日付けで軍事に関して素人のハインリヒ・ヒムラーが国内予備軍の総指揮に任じられ、
新たにハインツ・グデーリアン上級大将が陸軍参謀総長になった。
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グデーリアンはこれまで一度も参謀本部に勤務したことがなく、
そのことがまさにヒトラーにとって最大の身元保証であった。
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# by suzakugawara | 2005-08-16 21:46 | 出来事

ヒトラー暗殺未遂事件⑤ ~クーデター計画の弱点~

ドイツの抵抗派は再三にわたって西側連合国と協議に入ろうとしたが、
その試みはどれも成果がなかった。
特にアメリカが相手の場合には何の理解も得られなかった。
抵抗派の発言はいわば「帝政」のドイツが発言しようとしているわけであり、
ヒトラーのドイツよりましというわけではなかったからである。
 しかしクーデター計画の最大の弱点は、各軍管区の中枢を占拠するにあたっての軍事行動に必要な実戦部隊、すなわちベルリン衛戍大隊やベルリン周囲に集中している各種兵科学校生徒などについてはまったく掌握していなかったことである。
陰謀家達は高級参謀部や司令部単位で多くの横のつながりがあっただけなのである。
しかも軍団長代理として任命されているのはそのほとんどが
前線で任務に耐えられないような老齢の、あるいは病身の将軍であった。
また、ベックやゲルゲラーの周囲にいた保守的な名士グループと若手の参謀将校の間には、
政治上の見解の点で大きな相違があった。

その他の不確定要素としては、
国内軍司令官フロム将軍の態度があった。
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                     (Friedrich Fromm)

彼はライバルのカイテルと同じT2課の出身で、立場上、この戦争が負けであること、
何も得ることがなかったのをよく認識していた。
彼はヒトラーを災難だと思い、またカイテルのことを誇大妄想的になってきた「伍長」の
最悪の寵臣だとみなしていた。
そのために何とかしてヒトラーを排除するための方策を考えてはいた。
だが暗殺とクーデター彼の趣味には合わなかった。それで彼は他人の保護をすることになった。
そしてシュタウフェンベルクのやっていることすべてを黙認することにした。
そしてこんなシニカルな言い方でうっぷんを我慢していた。
「もし君らが一揆を起こしたら、俺はヴィルヘルム・カイテルのことを忘れないぞ」と。

1944年7月1日付けでシュタウフェンベルクは大佐に昇進し、
フリードリッヒ・フロム指揮の国内予備軍兼陸軍装備局の参謀長になった。
7月初め、カイテルから初めて新任の国内予備軍参謀長を紹介された時、
ヒトラーはこの片目に黒の眼帯をして大柄ですらりとし、
やや淋しげで強い印象をあたえるシュタウフェンベルクのことを、
特異な直観力によって、自分に敵意を持っている人物だ、と看破したという。
「なんと不気味な奴だ!」と。
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# by suzakugawara | 2005-08-14 20:05 | 出来事

ヒトラー暗殺未遂事件④ ~広がる反ヒトラー網~

1943年は敗北の年だったが、1944年がそれ以上良くなる見込みはなかった。
大西洋からドン河そしてシチリア島から連合軍は一歩一歩圧力をかけてきた。
参謀本部とOKH,そしてOKW対外防諜局、それにベルギー及び北フランス地区司令官の

ファルケンハウゼン歩兵大将(元中華民国軍事顧問)と
パリの地区司令官
シュトゥルプナーゲル大将、さらには敵の侵攻に備えて北フランスに配置されていたロンメル元帥シュパイデル中将のB軍集団司令部内でも
広く枝を張った抵抗派とのパイプが出来上がっていた。
だがこれは将軍と参謀将校段階での組織網であって、
目的達成のために実戦部隊を掌握できているかどうかについては自信が無かった。
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(写真左よりAlexander von Falkenhausen、Karl-Heinrich von Stuelpnagel )

参謀本部内では
作戦課長ホイジンンガー少将、編成課長シュティーフ少将、西方外国軍課長レンネ中佐、そして陸軍通信連絡局長フェルギーベル中将などが内通者の中に数えられた。
ベルリン地区ではSSが強力な軍隊を持っていたが、国防軍の軍事教練学校は
デベリッツ、クランプニッツ、ユーテンボルク、ヴンスドルフで質の高い兵力を提供した。
ヘルドルフ伯指揮下のベルリン警察隊、
市司令官パウル・フォン・ハーゼ将軍も反ナチにかかわっていた。

だが戦況はますます悪化していった。
6月6日、英米の大陸侵攻軍がノルマンディーに上陸したのである。
ここに西部戦線が現実のものとなった。ロンメルと幕僚たちは在フランスの各司令官たちと協調しつつ、ひそかに西側諸国と休戦の交渉に入ることを画策していたが、フランスで戦いが始まったことによって、そのような考えは一切が幻となった。
東部戦線ではドイツ中央軍集団が「白ルテニア大戦闘」で完全に壊滅し、
いよいよソ連軍が東プロイセンの国境に迫りつつあった。
ドイツ本土の上空は米英軍機に支配されていた。英空軍は大都市に対する夜間の銃弾爆撃を、
米空軍は昼間に生産拠点と交通要衝などの「ポイント目標」への攻撃を繰り返した。

戦争は負けであった。
元陸軍総司令官フリッチュとベックは、
来るべき戦争では陸軍こそが決定的な要素になると考えていたが、
それは真実ではなかった。逆にこれは陰謀者にとって真実となった。
なぜならば軍人による反ヒトラー陰謀においては、陸軍だけが頼りなのである。
数的に極めて強力な空軍も海軍もこの件についてはまったく計算の中に入れられていない。
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# by suzakugawara | 2005-07-29 21:19 | 出来事

ヒトラー暗殺未遂事件③ ~ワレキューレ作戦~

OKH総務局長オルプリヒト大将は自分の参謀長にシュタウフェンベルクを希望した。
この措置のおかげでシュタウフェンベルクは
国内予備軍のキー・ポジションに配置され、陰謀計画を着々と発展させていった。
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そして同計画には二つの同時進行的な作戦があったことが知られている。
ヒトラーの暗殺と、ヒムラーやゲーリング、SSからドイツ国家を完全に奪取することである。
43年夏に、陰謀計画におけるシュタウフェンベルクの中心的役割を認めていたベックとゲルゲラーは、ヒトラー暗殺後の権力掌握と特にベルリン奪取計画を練るよう彼に要請した。

「ワレキューレ作戦」の名で知られるこの計画は、
見事に考案されたカバーストーリーであり、同時にベルリン奪取計画であった。
オルプリヒト大将の参謀長としてシュタウフェンベルクはまったく公然と、
ベルリン地区で強制労働に従事している何千という外国人労働者の万が一の反乱、
敵落下傘部隊の降下などに備えて、政府関係の主要なビルや電話・通信センター、
ラジオ局などを押さえるために、ベルリン守備隊を動かす非常計画を立案した。
これは作戦本来の目的を隠す隠れ蓑であった。
さらに同作戦はSS部隊に対しても備えが出来ていたのである。
そしてシュタウフェンベルクはクーデターの指揮だけでなく、ヒトラー暗殺の実行も引き受けた。
なぜなら、彼例外には誰もこの恐ろしい仕事をやり遂げられるような機会がなく、
またその意志も持ち合わせていなかったからである。
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# by suzakugawara | 2005-07-28 20:43 | 出来事