[ペツァモ=キルケネス作戦]
極北戦線はドイツ軍のムルマンスク攻略を目標とした銀ギツネ作戦によって戦端が開かれたが、1942年のソ連軍のカレリア作戦(注1)の失敗以降膠着状態が続いていた。 ソ連軍は南方攻勢のために第一線部隊の大半が予備部隊や守備部隊と交代していたが、 散漫な作戦をフィンランド軍に対して行い、出来るだけ多くの戦力を殺ごうとした。 そして、バルト地方でのドイツ北方軍集団の崩壊とリガの陥落によって、 マンネルハイム元帥のフィンランド政府は休戦協定の調印するのやむなきに至った。 ドイツ第20山岳軍団の司令官ロタール・レンドリック上級大将(写真上)は フィンランドの脱落を事前に予想しており、配下の軍をムルマンスク西方のコラ半島のつけ根の北側と北ノルウェーの防塞拠点へと撤退を開始させていた。そして撤退が後少しというところで ソ連軍が北方での最後の攻勢であるペツァモ=キルケネス作戦を仕掛けてきた。 (左:メレツコフ元帥 右:シュチェルバーコフ中将 ) カレリア正面軍司令官メレツコフ元帥はシュチェルバーコフ中将率いる第14軍を主力とし、 ドイツ第2山岳師団の南側面を攻撃して迂回包囲し、 その後、主目標であるドイツ第19山岳軍団を攻撃するというものであった。 第14軍は第19山岳軍団に対して、兵員数で11万人対4万5千人と圧倒的に優勢であった。 しかし10月7日の総攻撃は空軍の視界不良と砲兵の支援不十分により中々進展しなかった。 第131狙撃師団はチトフカ河を渡り早々に橋頭堡を構築したが、攻撃の主力である第99狙撃師団は前面のドイツ軍の砲兵陣地を制圧するのに手間取り前進が遅れ、 その間に第2山岳師団はチトフカ河の橋を爆破して撤退してしまった。 10月9日から10日の夜にかけてソ連第63海兵旅団が上陸し、海岸に通じる道路を遮断した。 さらに第12海兵旅団も上陸し、海岸沿いのドイツ軍はペツァモまで撤退を余儀なくされた。 さらにソ連第126軽狙撃師団が西方へ通じる唯一の脱出路のロエスタリに、ドイツ軍の脱出を阻止する拠点を構築しつつあった。だが、この拠点は脆弱で、レンドリック上級大将は第19山岳軍団に撤退を指示し、第2山岳師団はソ連軍の阻止点を突破し、西方へ脱出できた。 ドイツ軍陣地の北の要のペツァモは、第63海兵旅団、第12海兵旅団、第14軍に三方向から攻撃され、14日に陥落した。ソ連軍はこの攻撃で消耗し進撃を休止しなければならなかった。 その後、ソ連軍はドイツ軍を蹴散らしつつ拠点を構築していったが極地のために補給が続かず、 ドイツ軍は兵力の大半を脱出させることに成功した。 退却しつつドイツ軍は局地的反撃を加え、ノルウェーに退いてからは空軍と砲兵の支援を受け、 ソ連軍の追撃を何度も撃退し、食い止めることに成功した。 メレツコフ元帥はこれ以上の進撃は地理的に不可能と判断し偵察以外の作戦を中止した。 これによってペツァモ=キルケネス作戦は終了する。 今作戦によってソ連軍は側面を脅かしていた極地を解放することに成功した。 さらに重要なこととして、この地域の多くの鉱山から産出されるニッケルと鉄鉱石のドイツ側への供給を遮断することに成功したのである。 戦争経済を語るヒトラーがこれを聞いて怒り狂ったことは言うまでもない。 何しろ彼はこれを守るためにノルウェーを占領し、銀ギツネ作戦を発動したのだから… ソ連側の司令官メレツコフ元帥は満州においてもう一度歴史に名を残すことになる。 今回のペツァモ=キルケネス作戦での教訓を応用し、 満州の過酷な地域で日本軍を破ることに成功したからである。 (注1) ムルマンスク前面のドイツ山岳師団(第6山岳師団)を壊滅し、 キルケネスまで進出し、北部フィンランドの占領を目的としたしたソ連軍の春季攻勢。 カレリア軍集団司令官フロロフ中将は第14軍率いて大攻勢に打って出たが、 シェルナー中将の必死の防戦とツンドラによりソ連軍は消耗しドイツ軍は防戦に成功した。 だがドイツ軍の反撃も兵力不足から攻撃力が尽きてしまい、 ムルマン鉄道目前にしながら攻撃を停止した。 その原因として空軍の兵力が少なかったことがあげられている。
by suzakugawara
| 2005-10-23 21:53
| 戦史関連
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