両集団の合流後、勢いに乗るドイツ軍は南に転じ、
8月23日にはトゥクムス市の南約40kmみある要衝ドベレを奪回すべく攻勢を開始した。 しかしちょうどこの時、ソ連軍による新たな攻勢が開始されたのである!! ソ連軍はエストニアの北方ヴォルツ湖とペイプス湖の間のタルトゥー市に攻撃を加えてきており、 タンネンベルクラインといわれるナルヴァ河戦線に立てこもって抵抗を続けている ナルヴァ作戦集団の背後が脅威に曝されることとなった。 そして25日にタルトゥー市は陥落、ドイツ軍は市郊外で陣地を築き抵抗を続ける。 ナルヴァ作戦集団 第2軍団 第563擲弾兵師団 第207保安師団 SS第3戦車軍団 第300特別編成師団 SS大20武装擲弾兵師団【エストニア第1】 第11歩兵師団 第285保安師団の一部 SS第11機甲擲弾兵師団【ノルラント】 SS義勇機甲擲弾兵旅団【ネーダーラント】の一部 SS第5義勇突撃旅団【ワロニエン】の一部 SS第6義勇突撃旅団【ランゲマルク】 ナルヴァ河に沿ってナルヴァ作戦集団によって構築されていたタンネンベルクラインは、 ソ連軍の攻勢を幾度も防いでいたが、相次ぐ他戦線への兵力抽出によって弱体化していた。 9月17日、イェレメンコ指揮の第2バルト軍集団とマスレニーコフ大将指揮の第3バルト軍集団が、バルト海とリガ湾に向けて攻勢を再開した。 この攻勢によりタルトゥー市郊外のドイツ軍陣地はソ連軍第2打撃軍によって蹴散らされ、 ヴァルガの北方のドイツ軍陣地もシモニャーク中将指揮の第67軍によって壊滅した。 これらの攻勢によりドイツ北方軍集団の防衛組織は完全に崩壊の瀬戸際へと追い込まれた。 北方軍集団司令官シェルナー上級大将はこれ以上の抵抗は不可能と考え、退却を命じた。 かくして北方軍集団はソ連軍による圧迫を受けつつも、リガへと後退した。 一方、ナルヴァ戦線ではレニングラード正面軍によって攻撃を加えられていた。 この戦線は多くのエストニア義勇兵の粘り強い抵抗で防衛戦を展開していたが、 遂に支えきれず、戦線は突破されてしまった。このことを予期していたナルヴァ作戦集団は、 包囲を避けるためかねてから準備していた撤退作戦[アシュター]を開始した。 ナルヴァ作戦集団は撤退を続け、9月27日にはクールランドの北に位置する、 サーレマー島とヒウムマ島に撤退した。 これによりソ連軍はバルト海の島を除き、実質上エストニア全土からドイツ軍を一掃した。 9月24日、ソ連軍最高司令部はヒウムマ島とサーレマー島に対する攻撃を決定し、 そして第2バルト軍集団と第3バルト軍集団はリガを急襲し、 バルト海岸のドイツ軍を一掃することになった。 だが、ソ連軍はドイツ北方軍集団を東プロイセンから切断し、 バルト海沿岸のドイツ軍を包囲殲滅するように作戦を変更したのである。 第1バルト軍集団司令官のバグラミヤンは10月4日までに五個軍団を攻撃地点に移動させた。 その内訳は狙撃(歩兵)師団50個、戦車旅団15個、砲兵連隊9個であった。 ドイツ軍もこの移動を察知していたが、対策をたてる時間がなかったのである。 10月5日、ソ連軍は攻撃を開始し、ヴォリスキー将軍率いる第5親衛軍がドイツ軍陣地を蹂躙し、戦線の後方への突破に成功した。この攻撃によりドイツ軍第3装甲軍団は分断され、 第28軍がメーメル市内に閉じこめられてしまい、 他の軍団もクールランドとリガ周辺にいた北方軍集団と切り離されてしまった。 このような危機的状況に直面したシェルナーはヒトラーに北方軍集団をクールランドの橋頭堡に撤退させるように主張し、ソ連軍の砲火の下をくぐって撤退が開始された。 10月23日までに北方軍集団はクールランドへの撤退を完了し、兵力と物資の大半を確保することに成功した。ヒトラーはそこに北方軍集団が留まることを主張して、 一部の部隊だけが、海路脱出して他の方面へ転用された。 一方、第3装甲軍団の残存部隊は東プロイセン国境沿いに新たな防衛ラインを構築していた。 10月16日、ソ連軍の第3白ロシア軍集団が攻撃を開始した、 ドイツ側の抵抗を熾烈を極め、ソ連軍は4日を費やして防衛ラインを突破するのに成功した。 だが、第二次防衛ラインも堅固でソ連軍は多大な犠牲を払ってこれを突破し、東プロイセンに100キロほど侵入し、兵力の補充のため、一時停止することとなった。
by suzakugawara
| 2005-09-15 17:06
| 戦史関連
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